#13 稲田堤麦酒醸造所

神奈川県川崎市は、東京都と隣接し、人口も神奈川県内で第2位を誇る大都市だ。この都市で、全国に誇る農産物を生産していることをご存知だろうか。「首都圏で農業」と聞くと、直感的には違和感を覚えるかもしれない。しかし、「都市型農業」として発展してきたその生産物は、強力なブランドを構築し全国的に根強い人気を誇っている。その名も「多摩川梨」だ。

今回は、稲田堤麦酒醸造所、通称「イナバク」でビールの副原料として利用予定である「多摩川梨」の生産者であるJAセレサ川崎 果樹部 菅支部の皆様にお話を伺った。この地で生まれた多摩川梨の魅力と、それを支える農家のこだわりが、どのようにビールという新たな形で息づいているのか。そのストーリーを紐解いていく。

(JAセレサ川崎 果樹部 菅支部の皆さん)

江戸時代に誕生した多摩川梨

多摩川梨とは多摩川流域で栽培される梨の総称だ。この地域は東京都の稲城市や神奈川県川崎市などが含まれ、これらの地域で栽培される梨を「多摩川梨」と呼んでいる。地元の市場だけでなく、観光農園としても知られ、地元住民に限らず幅広い層に人気があるこのブランド梨の起源とは。

かつてこの地域は水田農家が多くを占めていましたが、水田以外の作物も育てようと模索していたところ、この土地が梨の栽培に適していることが判明しました。こうして、梨農園としての歴史が始まったと伝えられています。

一説には梨栽培は元禄年間(1688年〜1704年)に始まったようだ。稲城市の長沼村の代官が京都府の山城国から「淡雪」という梨の苗を持ち帰り、これが多摩川梨の始まりとされている。その梨栽培は明治時代に入り本格化する。川崎の大師河原で発見された「長十郎梨」は甘味が強く、生産量が急増した。明治33年(1900年)には新品種「長十郎」が導入され、これが稲城の梨栽培の主流となった。大正8年(1919年)には稲城果実生産組合が設立され、技術の向上と販路の拡大が進められた。

一言で「梨」といっても幸水やあきづき、二十世紀、愛宕など様々な種類がある。今回イナバクで仕入れさせていただくのは豊水という品種だが、多摩川梨とはどの品種の梨を指すのだろうか。

豊水はその名の通り、水分量が多く糖度と酸味のバランスが絶妙な品種です。酸味があることで糖度が一層引き立ち、濃厚な味わいが特長といえます。この地域で最も多く栽培されている品種が「豊水」ですが、この辺りで収穫される梨は総称して「多摩川梨」と呼ばれ、豊水だけの品種に限った呼び名ではありません。

糖度と酸味のバランスが秀逸な豊水。この芳醇な香りがビールと組み合わさることでどのような化学反応を起こすのか、非常に興味深い。

「直売」が生み出す圧倒的な強み

多摩川梨は、この地域の特有の土壌が作り出す濃厚な味わいが特徴です。ただ、実はその美味しさを説明するには「糖度」や「水分量」だけでは不十分なんです。 ご存じの通り、同じ品種の梨が多摩川地域以外でも栽培されていますが、糖度に関しては技術的にしっかりと管理されていれば、全国の梨は多摩川梨と大きな差はありません。しかし、多摩川梨が優れているのはその「肉質」や「食味」であり、糖度だけでは語れない美味しさがそこにあります。 さらに、多摩川梨が特に好評を得ている理由の一つが、直売に力を入れていることです。スーパーで販売される梨は共選共販(*1)の方法が採られており、棚持ちをよくするために熟れる前に収穫されることが多いのです。一方、多摩川梨は大半が直売形式を採用しており、完熟の状態で収穫されすぐに消費者の手に届くためそのフレッシュな美味しさが直接感じられるのです。多くのお客様からも「同じ品種でもスーパーで買う梨とは違う。」という声をいただいています。

*1:共選共販(きょうせんきょうはん)とは、農産物の品質や等級を統一するために、複数の生産者が共同で出荷を行うシステム。このシステムは各生産者が自ら生産した農産物を一箇所に集め、そこで等級やサイズ・品質ごとに選別(共選)し、その後統一された基準で市場に出荷・販売(共販)するという方法。 品質の安定や物流の効率化といったメリットがある一方、選別や出荷に時間がかかり消費者の手に届くまでに時間がかかるため鮮度が落ちるといったデメリットもある。

果物は購入後に時間の経過と共に甘みが増すと感じるのが一般的だ。筆者もその現象が「熟れること」と誤解していたが、収穫後に「熟れる=糖度が上がる」ということは起こらないようだ。それではなぜ甘みが増すのか。それは時間の経過とともに、その果物が持つ「酸味」が落ち着くことで相対的に「甘み」が引き立つといった理由だ。

完熟の状態で消費者に届き、すぐに食することで酸味と甘みの絶妙なバランスを楽しむこともよし、少し時間をおいて際立った甘みを楽しむもよし、多摩川梨には複数の楽しみ方があるということだろう。なんとも贅沢な話だ。

都市型農業の優位性 ~消費者との距離~

スーパーなどの市場に提供することで、その販売チャネルは拡大しやすいだろう。しかし、その販売方法を採用しないのは、都市型農業で生産される多摩川梨ならではの事情があった。

都市農業の強みは、消費者がすぐそばにいることから収穫した農産物を市場を通さずに直接お客様に届けることができる点にあります。完熟した梨は特に新鮮で美味しいものの、日持ちしないという課題があります。豊水は他の品種に比べると多少日持ちするものの、完熟梨をそのまま楽しんでいただけるのは、地元で直接販売できる都市農業ならではの利点です。

また、遠方のお客様にも新鮮な梨を届けたいという想いからネット販売も始めました。顔が見える地元のお客様だけでなく、顔が見えない遠方のお客様も大切にしたいですね。ただし、限られた面積で栽培しており、収穫量には限りがあるため、すべてのお客様の依頼に応えられるわけではありません。毎年、リピーターの方々が注文をくださることもあり、ネット販売を通じての注文はどこかで締め切らざるを得ないという悩みも抱えています。「限られた生産量の中で、いかに多くの方々に新鮮で美味しい梨を届けるか」のバランスを取ることが重要な課題です。

 

住宅街の一角に梨農園が広がる、それが都市型農業の姿だ。それだけ消費者との距離が近く収穫後の配送もスムースだ。一方で住宅街に位置する農園は面積も小規模であることが一般的だ。冒頭の疑問に答えるとすると、小規模農園ゆえの限定的な収穫量の中でそのブランドが確立されており毎年リピーターやネット販売で収穫分は完売するため、あえてスーパーに出荷して販売チャネルを拡大させる必要性がないということだろう。

都市型農業の使命 ~減農薬への挑戦~

逆に住宅街の一角に位置する農園ならではの課題もある。それは「農薬の取り扱い」だ。

近くに住宅が広がるため、農薬の取り扱いには最新の注意を払っています。農薬は適正に使用すれば安全なのですが、一般の方にとって「農薬=危険」というイメージが根強いんですね。なので農薬の使用を極力減らしたいという思いがあります。住宅街に位置する都市型農園は特に「減農薬」にこだわっているのです。

まず主要な取り組みとして紹介したいのは、「天敵ダニ」です。梨農家にとって、葉っぱに付着するダニは大きな脅威です。葉っぱが光合成を行い梨の養分を生み出すため、その葉を食べるダニの存在は梨の生育に深刻な影響を与えます。そんな害虫ダニ対策として、化学薬品に頼らずに害虫を駆除する天敵ダニ(*2)を導入しています。「スパイカル」という商品名で知られるこの天敵ダニは、葉っぱを食べる害虫ダニを捕食してくれるため、化学薬品であるダニ剤の使用を少量に抑えることが可能となります。天敵ダニは、害虫ダニの匂いを嗅ぎつけそれを餌にして駆除してくれますが、農園全部をカバーできないので、最低限の農薬を併用して対処しています。


*2:天敵ダニとは、主として捕食性カブリダニのことを指す。 カブリダニはダニ目カブリダニ科に属するもので、おもに植物体上で微小昆虫、花粉、あるいは糸状菌の菌糸などを餌としており、 害虫ダニ、アザミウマ類、コナジラミ類などの天敵となるので生物農薬として利用されている。

この天敵ダニの導入は約5〜6年前から始まり、当初は一部の農家のみが導入していたが現在では地域の7割ほどの農家が導入しているという。農園にはダニ以外にも多くの害虫が存在するが、それらの害虫対策も十分になされているようだ。

他にも「レピガード」と呼ばれる黄色いライトを使用して、チョウや蛾などの害虫を防ぐ取り組みも進んでいます。このライトは夜行性の害虫が昼間と勘違いして活動を抑制する効果があり、農薬を減らすための一助となっています。 さらに、「交信かく乱剤」を設置し、人工的に合成された性フェロモンを散布することで、オスの害虫がメスの匂いを特定できず、交尾させず害虫の繁殖を抑制する取り組みも行っています。 害虫であるカメムシの侵入を防ぐために、多目的防災網を使用することで蚊帳のような効果を発揮し、上からの侵入を防いでいます。 これらの取り組みで、農薬を極力減らし、環境に優しく近隣住民の皆さんが安心できる農業を実現し、最終的に消費者に安全で高品質の梨を提供するための重要なステップとなっています。

(左からレピガード、交信かく乱剤)

持続可能な地域経済の実現に向けて

今年で3度目となる多摩川梨を使用したビール醸造の取り組みは、生産者の方々からも温かい目で見守られている。

地元の名前を冠するブルワリー(稲田堤麦酒醸造所)が、地元産の梨を使ったビールを作りたいと聞いたとき、「すごい良いことだ。」と感じました。ビールに使用される梨は、贈答品として出せるような完璧な形ではなく、味はよいものの、変形したり販売しづらい梨が対象となる。このような梨を地元の産物として無駄なく活用し、地元のお店が新たな形として価値を提供していく取り組みに、深い感銘を受けました。 今後梨を皮切りに、他の特産物を活用したビールの醸造への広がりにも期待したいですね。

(昨年醸造した、梨のビール)

今回計画している梨のビールはヴァイツェン用のモルトを使用しさっぱりとした味わいを実現しようとしている。梨の香りを活かすためにホップはあえて量を抑えて、その主張を抑えていく。去年の梨ビールより梨の使用量が増えるため、前回より梨の味や香りをより一層引き立てるビールに仕上げていく予定だ。

地元の資源を最大限に活用し、食品ロスを減らすこの取り組みは、持続可能な地域経済を支える重要な一歩だ。それを実現するのは地域に根差すブルワリーの使命とも言えるだろう。今後も地域の農家との連携を強化し、持続可能な地域経済に貢献していく取り組みに注目していきたい(ビールボーイ 編集部)

ブログに戻る