#19 PECORA BEER

五月台駅は、小田急多摩線沿線の新百合ヶ丘駅から一駅の静かな住宅街に位置し、1日約6,000人が利用する比較的小規模な駅だ。駅周辺は緑豊かな自然や農地が多く、特に季節の野菜が購入できる直売所など、地域の特色が感じられる。住宅地としても人気があり、治安の良さや落ち着いた雰囲気が特徴だ。また、新百合ヶ丘駅での乗り換えを通じて新宿や多摩センター方面へのアクセスも良好で、通勤・通学に便利な一方、穏やかな暮らしを求める人々にとって理想的なエリアとなっている。

そんな五月台駅から徒歩1分に去年オープンしたPECORA BEER(以下、ペコラ)がある。今回は醸造開始前に既にシニア・ビアジャッジ(*1)の資格を取得し業界の中でもトップレベルのマニアックさを誇るペコラビール合同会社 CEO福澤氏にお話を伺った。

*1:ビアジャッジは、日本地ビール協会が認定する資格。ビアテイスターの上位資格にあたり、ビール審査会等において、ビールの審査をする知識と官能評価能力があると認められた方に与えられる。シニア・ビアジャッジは、より高度なテイスティングスキルと専門的な知識を必要とする上級資格であり、ビール審査のリーダーとしての役割を果たす。


(五月台駅前)

MBA取得後の1つのキャリアパスとしてのブルワリーオーナー

国内のマイクロブルワリーオーナーの中でも、33歳の福澤氏は「若手」に分類される。しかし、ブルワリー開設に至るまでの経緯は、他のオーナーにも劣らない濃厚なストーリーで彩られている。

今年で33歳になるのですが、クラフトビールとの出会いは大学院時代まで遡ります。大学を卒業後、最初の2年間は自動車部品メーカーで海外営業を担当していました。深夜に海外との打ち合わせが入る毎日を過ごし、そのワークスタイルに馴染めなかったんですね。「これが正しい働き方だろうか?自分に合った働き方とは何か?」と悩みました。
退職を迷っていた際、せっかくなら次の時間をインプットに使おうと決めて、経営大学院(MBA)に進学しました。大学時代にサークルの代表を務めた経験から、「経営者という道もあるのではないか」という考えもあっての意思決定でした。
MBAの終わりが近づいた2017年の夏、カリフォルニア州ロサンゼルスのトーランスという地域でインターンシップを行いながらホームステイをしました。この経験がクラフトビールを知るきっかけになりました。ホストファミリーはとても親切な方で、頻繁に地元のブルワリーに連れて行ってくれました。夕方には仕事を終え、友人と集まりビールを楽しむライフスタイルが自身の前職と対照的だと感じたことをよく覚えています(笑)。訪れたブルワリーの中でも、「Smog City Brewing」や「Monkish Brewing」といった日本でも有名な場所も多く、特にスモッグシティのコーヒーポーターが衝撃的でしたね。色んなクラフトビールを飲んで、シンプルに「こんなに種類が多いんだ!?」と驚き、クラフトビールに魅了されました。

MBA修了後、2018年から日系企業で働き始めました。元々ビールの面白さを知っていて、経営学も学んだのですが、まだ自分が具体的に醸造所を開設するイメージが湧いていなかったんです。アメリカのマイクロブルワリーって規模がとてつもなく大きいので、日本で同じような事業展開は想像できなかったんですね。職場が埼玉の加須市にあって、ここから2時間くらいかかるので、帰り道で都内の醸造所に立ち寄るようになったんです。そこで、都内のマイクロブルワリーの皆さんの熱い想いや店に集まる人たちで形成される温かいコミュニティを体感して、「めっちゃいいじゃん。楽しそう」と思ったのと同時に日本におけるマイクロブルワリービジネスの理解も深まり、「自分もチャレンジできそうだ」と実感したんです。

2020年にコロナ禍が始まり、通っていた都内のブルワリーに行けなくなりました。SNSでも「地域の憩いの場が失われてしまうのではないか」という声が多く聞かれ、私自身も同じ危機感を抱きました。また自分の地元にはこうしたリアルな居場所がないことにも気づき、「自分が作ろう」と決意しました。

32歳で自身のブルワリーを立ち上げたその覚悟は、実に目を見張るものがある。新卒3年目で退職し、MBAを取得。その後も独自の視点と情熱を持ち続け、自らのブルワリー開設という挑戦に踏み切った。まさに、アントレプレナーシップを体現した人物である。
アメリカの成熟したビール文化に触れた経験と、日本国内のブルワリーコミュニティを巡り培った知見。その両方を武器に、日本のクラフトビール市場に新たな風を吹き込もうとしている。

 

地域と共に育てる「ASAO HOP PROJECT」

幼少期より日本と海外を行き来してきた福澤氏にとって、確固たる「地元」はない。そんな福澤氏にとって大学卒業後からずっと住んできた川崎市麻生区が「地元」として共生している場所と言えるだろう。

3年前に「ASAO HOP PROJECT」を立ち上げました。このプロジェクトは区役所と連携し、地域住民の皆さんとホップを育てる取り組みです。麻生区は川崎市内でも農地面積が大きく、農家が多いエリアです。小さい町ながら、新百合ヶ丘という小さな都市を中心に豊かな農地が広がっており、自然と都会のバランスが取れた場所です。五月台駅から徒歩5分のところにはホッププロジェクトの共有畑もあり、東京ではなかなか見られない環境だと感じています。
アメリカホームステイ中に生ホップの魅力に気づき、帰国後は実家でホップを育てていました。生ホップの活用方法を調べる中でアメリカ・オレゴン州の取り組みを知ったんです。地域住民が庭で育てたホップをドネーションし、手伝ってくれた人には出来上がったビールをプレゼントするという取り組みです。これを地元の麻生区でもやろうと思ったんです。
プロジェクト3年目になる2024年に初めて収穫した生ホップでビールを作ることができました。麻生区はチラシの印刷費や配送費を負担し、この取り組みを地域に広める役割を担ってくれています。

麻生区も他の地域と同様に農地が減少しています。その中で、緑化活動は非常に重要です。このプロジェクトを通じて、地域の人たちが協力し、楽しく緑化活動を行うことで、住民同士のコミュニティが形成されています。自然とともに暮らし、地域を守りながらつながりを生むこの取り組みは、今後も続けていきた


(ASAO HOP PROJECTのホップ畑)

マイクロブルワリーの地域社会との交わりは、非常に重要な意味を持つ。ブルワリーは、場合によって地域のトレンドの発信源となり、地域活性化の一翼を担う存在となる。ペコラのように地域社会と密接に関わりを持つブルワリーが増え、各地でムーブメントを醸成することで、日本社会におけるクラフトビールの立ち位置は大きく改善するだろう。


都内から30分、「ファームブルワリー」の夢

福澤氏のクラフトビールの原体験は、アメリカのマイクロブルワリーにある。だが、福澤氏が目指すブルワリー像はそういったマイクロブルワリーとは微妙に異なるようだ。

「ファームブルワリー」と聞くと、遠くの田舎に足を運ばないと体験できない場所を想像する人が多いかもしれません。しかし、都内からわずか30分というアクセスの良い現ブルワリーを、畑に近い立地を活かした小規模なファームブルワリーとしても楽しめる場所にしたいと考えています。

ファームブルワリーは、マイクロブルワリーとは少し異なる特徴を持ちます。マイクロブルワリーは原材料を外部から調達して、IPAやスタウトなど多様なビールや独創的なビールを生み出し、クラフトビールの多様性を提供することを目的としています。一方ファームブルワリーは例えばホップ畑などの農地に隣接し、原材料は自家栽培し、セゾンやフレッシュホップビールなどの限定的なビールを醸造しています。地域の農産物や自然を活用し、農業とクラフトビールを結びつけた体験を提供することが目的です。言い換えると、素材の鮮度や自然の魅力を強調するビールを提供することが特徴です。

現在取り組んでいる「ASAO HOP PROJECT」も、この夢を実現するための重要な布石になっています。このプロジェクトでは、地域の人々が育てたホップを活用してビールを作るという循環型の仕組みを構築してきました。将来的には近隣のホップ畑での作業や収穫を一般のお客様にも適宜開放し、その後にセゾン系のビールを飲んだり、フレッシュホップビールが完成した際には簡単なフレッシュホップパーティを行ったりしたいと思っています。

(店頭の福澤氏。足元にはホップの苗が並んでいる)

日本の農業は、若者の離農や高齢化、食料自給率の低下といった深刻な社会課題を抱えている。そのような状況下で、ファームブルワリーは農業と地域社会を結びつける取り組みとして有効だ。農地の活用や地元産ホップの栽培を通じて、農業の魅力を再発見させるだけでなく、地域経済や観光の活性化にも寄与する可能性を秘めている。こうした取り組みが広がることで、農業と地域の活性化という日本が抱える社会課題に新たな光をもたらすことが期待される。


ビアジャッジ審査員 兼 醸造家のマニアックな醸造哲学

醸造開始半年を経過した段階、いわば醸造の世界では新人とも言える福澤氏の醸造におけるこだわりとは。

今は醸造工程において、基礎を徹底的に大切にしています。特に、ビアジャッジ審査員としてビアスタイルの歴史や基準を知っているからこそ、その「モノサシ」に忠実なビール作りを心がけています。特定のスタイルには長い歴史の中で確立された指標があり、そこに沿うことで、正統派のビールを追求しています。とはいえ、将来的には遊び心を加えた変化球のようなビールも作っていきたいですね。基礎に忠実に、でも遊び心は忘れずにといった具合でしょうか(笑)。

 

(常時6~9種類のビールを提供)


ビアジャッジとして業界のパイオニア達と至近距離でビール哲学を磨いてきた福澤氏にとって、各ビアスタイルの基礎はある意味超えてはならない一線ということだろうか。一方で、「ビールを楽しむ」という遊び心も持ち合わせている。そんな権威性を兼ね備えた福澤氏も醸造開始当初は失敗経験を持つ。

醸造を始めた頃、麦芽の挽き方を細かくしすぎてしまい、マッシング時に細かい麦芽によって装置が詰まるという問題に直面しました。スパージング後にボイルタンクに移送するのに4時間以上かかりました。ペットボトルを逆さまにして水を注ぐ方が速かったですね(笑)。
この問題を解消するために、ロータリングのスピードを調整する方法を見つけました。細かいモルトが下層に残っている初期段階ではロータリングを少し早めに進め、粒子が荒くなったところでスピードを落とすやり方です。この方法を見つけるまでに4~5回の仕込みを費やしました。

ロータリングのスピードをコントロールすることは、麦芽の渋みの元となるタンニンを抑えるためにも重要です。ロータリングのスピードが速すぎると麦層が圧縮され、タンニンが出てしまいます。それを抑止するためにローターリング時には直接ポンプで麦汁を引き出さず、バッファータンクを介して循環させる方法を採用しています。ビアジャッジ審査員として研鑽する中で、「渋み」はビール評価において非常に重要なポイントだと実感しています。渋みには麦由来のものと劣化によるものがありますが、少なくとも麦由来の渋みは抑えたいと考え、設備と工程に工夫を重ねています。

 

(タンク下段のバッファータンク)

 

ビールの主原料である、水、麦芽、ホップ、イーストの内、水以外は海外から仕入れるケースが大半だ。そのため、コントロール可能な水にはこだわりを持っているようだ。

水にはこだわっています。仕込みごとに水のミネラル量を測定し、マッシング効率が最大になるよう調整を行っています。ミネラル量の変化が効率に大きく影響を与えるため、細かく記録をつけながら水の調整において試行錯誤を繰り返しています。この作業はちょっと細かすぎるかなとも自覚していますが、それが良いビールを作るための重要なプロセスだと考えています。

さらに、水のpH管理にも気を付けています。マッシング中のpHが5.2の場合、糖化効率が最も高くなる一方、5.3では糖化効率が大きく低下します。そのため、pHを5.2以下に保つことを徹底しており、元々日本の水道水はpH6.7とアルカリ性が強いので、それを酸性に調整することが欠かせません。こうした細かな調整が、ビールの品質を左右すると信じています。


(水のミネラル分を測定する装置)


醸造の世界は、それ自体が非常にマニアックな分野である。その中でも、福澤氏の取り組みはさらに一歩踏み込んでいる。例えば、仕込み水のミネラル量を細かくコントロールするという、他の醸造家でも実践している人が少ない領域に挑んでいるのだ。これらの取り組みを楽しそうに語る福澤氏から「強いビール愛」を感じた一面だった。

定番ビール

今のところ、定番ビールはまだありませんが、いくつか定番にしていきたいビールのスタイルがあります。具体的には、New World IPA(ペコラIPA)、West Coast IPA、コーヒーポーター、セゾンです。これらを軸に、少しずつラインナップを固めていきたいと考えています。

New World IPAは、「アメリカ産ではない新しいホップ」を使ったIPAです。オーストラリアやニュージーランド産のホップを使っており、アメリカンホップとは異なる香りや味わいを引き出しています。ホップの香りを引き立たせるために、モルトの香りを抑える工夫をしています。そのため、香りの強いローストモルト(*2)の量を減らして、ビールの色を鮮やかな黄色に仕上げています。この華やかな香りと軽やかな飲み口が、このスタイルの最大の特徴です。
West Coast IPAは昔ながらのアメリカンIPAです。麦の香りがしっかり感じられるボディと、ガツンと苦味の効いたホップの香りが特徴です。New World IPAとは対照的な位置づけで、クラシックなIPAの良さを大切にしています。
コーヒーポーターは、発酵の後期にコーヒー豆を加えることで、コーヒーの香りをビールに移しています。ローストモルトの使用量は全体の20%程度に抑え、バランスを意識しました。コーヒーの濃厚な香りと滑らかな口当たりがあり、じっくりと味わいたいビールになっています。
セゾンは、アメリカのファームブルワリーの雰囲気を感じさせるスタイルで、個人的にも特に好きなビールの一つです。ビールのラインナップに加えても自然な形で馴染みますし、ファームブルワリーらしいビールとして魅力を感じています。


 

(左からBlack Sheep | コーヒーポーター、アメリカホームステイ時に購入したスモッグシティのコーヒーポーターグラウラー)


アメリカのマイクロブルワリーが原点となっているだけあって、ファームブルワリーとマイクロブルワリーを共に連想させるラインナップが混合しているようだ。

*2:ローストモルトは、麦芽を高温で焙煎することで作られ、チョコレートやコーヒーのような濃厚な香りと深い色合いをビールに与えるモルトである。香りが強く出るため、スタウトやポーターなどの濃色ビールに多用される。

 

醸造家はスーパーマン!?

醸造を始めてみて、改めて「醸造家」という仕事の厳しさを実感している福澤氏。その難しさこそが、現在のクラフトビール業界が抱える課題の一つであると捉えているようだ。

マイクロブルワリーの醸造家って「スーパーマン」だと思っています。まだ自分はなれていませんが(笑)。醸造家って、機械を使いこなすメカニックであり、ビール作りの基盤となる化学や生物学の専門知識を持ち、さらにマーケティングやセールス、経営まで担っています。正直、領域が広すぎると感じることもありますが、それを1人でカバーしている醸造家ってスーパーマンですよね。
ただ、そのようなスーパーマンはやはり業界でも一握りなのかもしれません。ブルワリーを一人で切り盛りしている醸造家にとって全ての領域をカバーすることってめちゃくちゃ難しいんですよね。業界全体に感じる課題感として、「クラフトビールの良さを伝える伝道者」が少ないことだと思っています。私自身、醸造業務に忙殺され、お店でお客様とお話をする時間を十分に確保できていない状況です。。。

マイクロブルワリーを続けられるのは、結局のところ「ビール愛の強い人」だと思っています。ビールを作るのが好きで、その魅力を人々に伝えることに情熱を持てる人でなければ、このビジネスは続けられないと思います。効率だけを考えれば、外部から仕入れたビールを提供して回転率を上げるビアバーの方が良い選択肢のように見えます。頻繁に新しいビールが開栓され、毎日異なるビールが楽しめる場所というのは、お客様にとってとても楽しい環境ですよね。でも、ブルワリーは在庫を抱えるビジネスです。一度作ったビールを売り切るまでに2〜3か月かかることもあり、ビアバーと比べてラインナップも少なく、盛り上がりに欠けることもあります。そんな環境下でこそ、「自分の手で醸造したビールを胸を張って提供し、そのストーリーを熱を持って語ることができる熱意」が重要になるのだと信じています。
「スーパーマン醸造家」に早くなれるように頑張っていきます!

 

(CoHop | Fresh Hop Pale Ale)


ビール愛のある醸造家こそが、お客様との十分なコミュニケーションを通じてクラフトビールの楽しさや奥深さを啓蒙できる唯一無二の存在である。そのような醸造家が「醸造以外の活動」にも時間を割けるような構造的なイノベーションが求められる。現在、ビール市場全体のわずか2%程度のシェアを占める小さなマーケットで切磋琢磨している各ブルワリーが手を取り合い、クラフトビールの地位を向上させていく未来が期待される。都市型のファームブルワリーとしてクラフトビールの認知拡大を目指すペコラの取り組みには、今後も注目していきたい(Beerboy 編集部)



 


 

PECORA BEER
〒215-0025 神奈川県川崎市麻生区五力田2丁目3−3

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